昌徳宮は太宗5年(西暦1405年)に完工の建築物。朝鮮時代の宮廷で当初離宮として創建されましたが、壬辰倭乱(文祿の役)の時、正宮である景福宮が消失し、朝鮮末期に復旧されるまで約300年間あまり歴代の王たちがこの昌徳宮で政事を行なうために本宮として使っていました。またここは景福宮の東側にあるため「トングォル(東闕)」と呼ばれたりもしました。
昌徳宮は壬辰倭乱(文祿の役)の時、景福宮や昌慶宮と共に全焼しましたが、光海君元年(1609年)に今の宮廷が再建されました。したがって昌徳宮は壬辰倭乱以後、朝鮮王朝の国政を総括する歴史の主な舞台となった所なのです。
現存する建物のうち昌徳宮の中で最も古い建物は正門の敦化門ですが、この門は昌慶宮の正門である弘化門と共に宮廷の正門として建築史的価値が高いと言われています。
昌徳宮には別名「禁苑」または「秘苑」と呼ばれる後苑があります。この後苑は朝鮮時代の宮廷の造景手法をそっくりそのまま保存しており非常に重要視されている所。朝鮮時代後期には昌徳宮で大部分の政事を行なった歴代の王たちが度々ここに立ち寄って休息を取りました。後苑(秘苑)は現在も昔の姿をそのまま保っており、100種を越える樹木の中には300年以上経った巨木もいくつかあり当時の様子をそのままに伝えています。また渓流と蓮池、亭子(東屋)なども自然との完璧な調和をなしており、昔の宮廷の造園手法を知るうえでも大変貴重な場所です。
特に、昌徳宮は建物の構造が創建当時の原型に近いだけでなく、建築物の配置も一般的な対称構成や直線軸上の配置ではない既存の自然の地形条件に合わせて自由な形態を取っているという点も特筆すべき点です。また後方の低い丘と左右の地形的特性を利用して正門の位置や正殿及び内殿などいろいろな建物を体裁よく配置した点などは同じ類型の宮廷建築である中国の紫金城や日本の御所とは異なる特徴を見せています。
1997年12月 ユネスコ世界文化遺産登録
|